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2017/07/08

2017.7.8 大学英語教育学会関西支部役員会・講演会

表記に参加しました。

講演会は,支部の文学研究会の企画で,寺西雅之先生(兵庫県立大学)をお招きし,文体論の観点から文学テキストの読みの多様性を探ったご著書のご紹介をしていただきました。興味深く拝聴しました。

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 最近になって,「大学英語教育に文学を」という声があちらこちらで聞かれるようになってきました。

 ただ,現在では,「文学テキストを教材にしてはいけない」といった明示的なルールを設けている大学は少なくなっています。つまり,教員が使おうと思えば使える状況はすでにあるわけで,ここで考えるべきは,にも拘らず,いっこうに文学が使われないのはなぜか,という点でしょう。

 文学愛好家(研究者)であれば,考えるべきは,戦略の立て方です。

(A)文体論・レトリック習得の効果を掲げて戦う
文学作品は修辞の工夫がいっぱいで名文の宝庫だ。これを読むことで,英文読解力や,英作文力がアップする・・・といった主張。

(B)21世紀型スキルやキーコンピテンシーを絡めて戦う
現在の仕事の多くが機械にとってかわられようとしている中で,TOEICスコアのような「英語力」の意味は制約的だ。これに対し,文学は,21世紀型スキルの鍵を握る批判的思考力・想像力・発想力を鍛える。だから今こそ文学だ・・・といった主張。

(C)先祖返りして教養を前面に掲げて戦う
たしかに文学は目先の英語力向上にほとんど役に立たない,TOEICもあがらない,だが,人間として絶対に必要なものなのだ,グローバル人材はグローバルな教養あってこそだ,ビジネスマンこそシェイクスピア1冊ぐらいは原典で読んでおけ・・・といった主張。

私見ですが,まず,(A)は難しいのではないでしょうか?広告文であれ,演説であれ,一見無味乾燥な法律の条文であれ,そこには何らかの文体的・修辞的工夫があります(だからこそ[言語学寄りの]文体論の研究者は意図的にこうした幅広いテキストを分析の素材に選びます)。実際,文学だけにしかない修辞や表現といったものは見出しがたく,この方向での戦闘は不利だと思われます。さらに,うかつに読解「力」などと言おうものなら,読解力の定義はなんだ,統制群はあるのか,t検定はかけたのか,ANOVAはしたのか,といった攻撃がドバっと飛んでくることは必定で,このロジックでの局面打破は難しそうです。

また,(B)も難しいでしょう。前段はその通りだとしても,後半の説得力が弱いです。力がない教師が教えれば,英文学の至高の名作であっても,全員が寝てしまう授業というのはありえます。逆に,力のある教師なら,シェイクスピアであれ,ディケンズであれ,昨日のNew York Timesであれ,今朝メイルボックに届いていた投資を勧誘する怪しげな英文ジャンクメイルであれ,すべて,思考力・想像力・発想力を磨く「21世紀スキル」型教材にしてしまいます。やはり,文学にしかない要素というのを探すのは困難です。

(A)にせよ,(B)にせよ,どうも,わざわざ不利な敵陣に出て行って,敵側のロジックで戦いを挑んでいるという感じがします。とくに,プロパーの文学研究者が急にPISAとかキーコンピテンシーとか新学力観とかを持ち出すと,非常に危うい姿に映ります。

となると,残された方向は(C)ということになります。文学愛好家は(C)なれば実感と自信をもって声高に語れるはずです。かつて(たとえば,私自身が大学で一般教養の英語を受けていた30年前)のように,大学英語教材のデフォルトが英文学であった時代ならいざしらず,今,(C)を叫べば,時代が一周ぐるっと回っているので,かえって新奇に映り,一定の支持が得られるのではないでしょうか? ふりこが永遠に同じ方向にふれることはありえず,いつか逆方向にふれはじめます。

ちなみに,我が家の新聞は日経ですが,その行間からは,いわゆる「教養」への過剰な憧憬と崇拝がいつも過剰なほど匂い(臭い?)立っています。おそらくは文学愛好家が仮想敵だと信じ込んでいるビジネス界こそが,教育現場での文学復興の最大の支持者になってくれるという可能性は意外に高いのではないかと夢想しています。